中山道歩き旅 第三回 蕨から大宮 その①

2020年12月26日(土曜日)天気は、晴れ。

今回は、蕨宿から大宮宿を目指します。

私は、腰の治療のため、T氏とS氏と蕨駅で待ち合わせ。

当初3人でのてくてく旅です。

まずは、和樂備神社を目指します。

蕨駅から中山道へ向かって、暫く歩くと左手に鳥居が現れます。

朝の神社は、厳かな雰囲気。

しっかりお参りをした後は、境内を散策、隣接する公園には、蕨城跡の碑がありました。

和樂備神社を後にして、中山道にある、蕨市立歴史民俗資料館分館までひと歩き。

此方は、明治時代の織物商の屋敷が保存されており、中に入っての見学もできます。

渋沢栄一著の額が飾られています。

部屋の中には、季節外れの雛人形が多数飾られていました。

コロナの影響で、密を避ける為、3月に飾ったものが片付けられずにいるとの事でした。

分館を後にし、次は、本館を目指します。

それにしても蕨市は、歴史民俗資料館もそうですが、様々な形で宿場町をアピールしていますね。

マンホールの蓋には、もちろん蕨宿。

お店の幟も、蕨宿。

道路縁のデザインにも、蕨宿。

歴史民俗資料館に到着です。

此方は、本陣跡でもあります。

資料館の中には、当時の蕨宿のジオラマや江戸から昭和にかけての生活、文化を知ることができる品々を展示してあります。

しっかりお勉強をして、てくてく旅再開です。

次に目指すは、三学院です。

此方のお寺さんは、天正十九年に徳川家康により、寺領二十石を寄進する旨の朱印状が授与されています。

以後、歴代将軍から同様に朱印状が与えられた、由緒正しいお寺さんです。

地蔵の小径を通ると門が見えてきました。

門をくぐると沢山のお地蔵様が居られます。

元禄七年造立の子育て地蔵。

地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天の六道の全ての民衆の苦悩を救済する、六地蔵石仏。

此方も元禄年間造立だそうです。

お地蔵様の目に味噌を塗って願をかけると、目の病が治ると言われる、目やみ地蔵。

境内の中には、巨大な本堂と三重の塔、鐘つき堂がありました。

三学院を後にして、天保年間創業の萬寿屋さんに立ち寄り、お土産にお煎餅を買いました。

お煎餅を食べながら、中山道を進みます。

蕨宿には、古い家屋が多く残っていました。

宿場外れにある、中山道ふれあい広場で小休止し、蕨宿を後にします。

暫く歩き進めると、一六橋。

境橋。

と続きます。

近くのコンビニでトイレを借りて、またまた小休止。

ここから、初登場のK氏が合流です。

旅人が、4人になり、てくてく再開です。

お次は、辻の一里塚跡を目指します。

一里塚碑は、外環道のすぐそばにある公園の中にありました。

日本橋から四番目の一里塚です。

さらに進むと、熊野神社がありました。

勿論、お参りいたします。

戦前各地に建てられた、国威宣揚の石碑が残っていました。

さらに進みます。

大宮台地の坂を登ると、小学校そばの歩道橋下に焼米坂の碑があります。

江戸の昔、焼き米を食べさせる立場茶屋が数件あり、ちょっとした名物になっていたそうです。

旅の携帯食として重宝されたとか。

交通量の多いなか、歩き続けます。

次に見えてきたのは、関元屋商店のお助け井戸です。

関東大震災東京大空襲の時、東京方面から逃げてきた人々の喉を潤した井戸だそうです。

東日本大震災で被災した時、東京にある職場から埼玉の自宅まで歩いて帰った事を思い出しました。

さらに歩き進むと、こんもりと木々が生い茂っている場所が見えてきます。

調神社です。

此方の神社で有名なのが、狛犬ならぬ狛兎。

「調」(つき)が「月」(つき)と同じ読みであることから、月と言えば、兎と言うこと。

沢山のうさぎさんを見ることができます。

神社の名前由来は、租庸調の調が語源だそうで、都へ送る地域の名物を納める御倉があり、神聖化され、神社になったとか。

境内を見学させていただき、中山道に戻ります。

お昼も過ぎ、お腹も減りました。

浦和宿に入った所でランチをいただきます。

今回はここでと決めていました。

その②に続く。