中山道歩き旅 第五回 上尾から北本 その①

2021年9月25日(土曜日)天気は、くもり時々小雨。

緊急事態宣言下ながら、新型コロナウイルスの感染者も大幅に減り、猛暑の時期も過ぎたことで、てくてく旅再開です。

今回は、復帰戦でもありますので、歩く距離は、控えめに上尾宿から江戸時代の初期まで宿場が置かれた北本の本宿を目指し歩きます。

今回の参加者は、いつもの4人。

午前11時に前回のスタート地点である、上尾宿総鎮守氷川鍬神社に集合致しました。

まずは、今日の旅の安全を祈願致します。

てくてく旅スタートです。

信号を渡り、氷川鍬神社とは、反対側の歩道を桶川宿に向かって歩きはじめます。

街路樹のなかに、栄泉が描いた上尾宿の浮世絵がレリーフとなって置かれています。

駅前交差点には、上尾宿を示す柱がそびえていました。

上尾宿は、江戸を朝一番に出ると日暮前には、たどり着く距離にあり、宿場の規模のわりに多くの旅籠がありました。

旅籠には、飯盛り女や遊女が大勢いたようで、旅人だけでなく、近隣からも女遊び目当てに上尾宿に通う男達が沢山いたとか。

最初に目指すのは、そんな上尾宿の遊女にも縁がある、偏照院。

地元では、上寺さんと呼ばれ親しまれています。

偏照院は、中山道から少し入った所にありますが、立派な山門が中山道からも見えますのですぐにわかります。

境内には、様々な石像が綺麗に並び、なかでも、孝女お玉の墓が目に止まる位置に置かれています。

お玉さんとは、貧しい家の為、幼い頃に上尾宿の旅籠、大村桜に売られてきた遊女だそうです。

彼女は、家族のために懸命に働き、また、気立ても良く、評判の娘だったとのことです。

やがて、参勤交代でやってきた加賀前田藩の小姓に見初められ、共に江戸へと行きました。

その後、不運にも病にかかり、僅か2年程で上尾宿に帰されてしまいました。

それでもお玉さんは、懸命に働いたそうです。

しかし、病のため、25歳の若さで亡くなったのでした。

そんなお玉さんを思って、大村桜のご主人がお墓を建ててあげたのでした。

当時は、遊女が亡くなっても正式な弔いもないままに打ち捨てられる事もあったのだとか。

お玉さんがどれだけ地域の人々に愛されていたのかが、解りますね。

墓石には、廓室妙顔信女と戒名が彫られています。

本堂。

鐘突堂。

偏照院を後にし、中山道に戻り、桶川宿を目指します。

少し歩くと庚申塔が鎮座します。

延享二年建立の上尾上町講中庚申塔です。

上尾宿の京都側の端は、この辺りだったそうで、庚申塔を置くことにより、流行り病、悪霊や邪気を防いでいたのでしょうか。

フセギ信仰の一つなのかも知れませんね。

その先にある造り酒屋を越えると、上尾宿の案内板がありました。

屋根の上には、上尾宿のシンボル、鍾馗様も見ることができます。

交差点を過ぎると、武蔵野うどんの名店、田舎っぺうどんさんが見えてきます。

時計もお昼をまわり良い時間。

此方でお昼ごはんをいただきます。

いただいたのは、肉ねき汁、大盛うどん。

大変美味しくいただきました。

ごちそうさまでした。

お腹も満足し、てくてく旅再開です。

少し歩くと北上尾駅の駅前となります。

此方には、ショッピングモール、PAPAがあります。

PAPAの2つのPは、プリンスとプリンセスの頭文字のPから引用されています。

これは、今の上皇陛下のご婚礼を記念し、1963年に開園した公園跡地に建てられた事に由来しているそうです。

北上尾駅前を過ぎると中山道の片側は、こんもり森の様に。

此方は、当時この辺りの特産であった紅花を取り扱っていた方のお屋敷だそうです。

暫く歩くと、道端に庚申塔が入った祠がありました。

側面には、明和六己丑四月吉日と彫られています。

明和六年は 、さつま芋で有名な青木昆陽が亡くなった年でもあります。

前回の旅に寄った大宮公園には、彼の功績を称える記念碑がありました。

明和は、後桜町天皇の御代、将軍は九代徳川家治の時代です。

庚申塔を後にし、歩き続けると桶川宿の案内板が立っています。

案内板の裏は、上尾宿への道標となっていました。

ここから上尾宿まで26町というと、3キロもない位。

上尾宿と桶川宿との距離は、約3キロ程で、とても近くにあることがわかります。

桶川宿を目指します。

その②に続く。